東久留米市議会議員 岩崎さやこ 【国民民主党】
【幼少期】
沖縄出身の父と東京育ちの母(祖母の代は山形)の両親を持ち、東京生まれ。小学校時代は沖縄県那覇市首里、中学校以降は東京・立川で育ちました。

父方の親戚に、沖縄本土復帰に尽力した吉田嗣延がおり、代々嗣という字を名前につける家系でした。祖父は薬局を経営、祖母の実家は泡盛の造り酒屋でした。祖父は戦後生まれの父に祖父は
嗣という字をつけるのをやめたと聞いています。

母方の祖父祖母は山形県鶴岡市の出身です。祖母は、余目の農家の出身で教員経験があり、大学を卒業し銀行員となる祖父と共に東京・立川に拠点を移し生活をしました。母は北京で開催された女性会議に立川代表として参加しました。

私自身は保育園は立川の愛好保育園、小学校は那覇市首里の城東小学校に入学、のちに分校した石嶺小学校に通いました。
小学校五年生時に東京に戻り、立川市立第五小学校、中学校は立川第二中学校、高校は都立立川高校です。

【大学】
大学は一橋大学に入学、学部時代は、年金など社会保障の勉強をしていました。社会保障に加えて社会人類学に興味を持ち、社会人類学に院進しました。修士課程では、タンザニアのペンキ・アート、ティンガティンガに描かれた妖怪(shetani)について研究し、博士課程において現地調査をしました。
2000年ごろです。私が調査をしていたのはムササニ村というところでした。近年、SHOGENさんという方がブンジュ村に修行に行き、絵を描いていると聞き、懐かしいと感じます。このティンガティンガのペンキアートを入り口として、徐々に現地の治療や歴史に関わる薬について調査を拡大し、2年の調査を終え帰国後博士号を取得しました。この論文は単著として出版しました。そのほか翻訳もあります。

【社会人】
博士号取得後、研究員や講師の仕事等をしました。社会学などを担当しつつ子育てをしていましたが、長男が7歳で突然の病気で亡くなり、しばらく育児に専念しました。
気づけば自宅に未就学児がいる期間が15年間になりました。
合計で保育園6園、幼稚園3園、小学校2校、中学校2校、高校1校を保護者として経験し、PTAには数箇所で参加しました。
育児をする中で、子どもたちの環境には、個人や家庭で解決できない問題があると感じました。
長男が亡くなり、何もしてあげられなかったと後悔しました。その分を今、子育てや教育問題の改善に取り組むことで人生の意義を見出し活動しています。

【議員へ】
今いる三人の子ども達が小学校に通い、手が離れた頃、市報で男女共同参画市民委員の公募を見つけ応募しました。
この男女共同参画の市民委員は、子育てや教育の問題、経済問題、DV問題といったあらゆる問題を扱うことができ、市民委員として三年間務める中で、市内にどのような課題があるのかを知ることができ、大変勉強になりました。
この委員の任期途中で、委員として実現不能なこともあると感じ、女性のための政治スクールに通い始め、結果議員になりました。
私はタンザニアに2年住み、スワヒリ語で聞き取り調査をしていました。タンザニア以外のアフリカ諸国にも行きました。
モザンビークやウガンダなど。
住む社会や国家、宗教の違いにより、考え方や感じ方に大きな差があるのを見てきましたし、同時に、人として変わらないところもあるということを体感してきました。
調査当時には、エボラ出血熱、マラリア、HIV、コレラが身近にありました。
またビールとよく合うんだとおじいさんに勧められ、ネズミを食べたこともあります。
今振り替えれば、当時の生活で得たタンザニアでの、人権感覚、幸せの考え方は、議員活動をする現在でも、私に大きな影響を与えています。

動画

岩崎さやこ 出陣式&第一声
https://youtu.be/pSp-TMgp7C0?si=KEo5MXVSawtqBxDJ
わたしが市議会議員になった4つのきっかけ 新人議員と市民の討論対話会
https://youtu.be/hRUirKFnUo8?si=PvDNwqCwbudVVsEq

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